創造の始まりであるラスコーの洞窟の絵と、今の絵画の状況の違いを考えてみました。

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紀元前15000年位前の昔、絵を描くことが必須条件ではなかったのに、なぜ人はラスコーの洞窟に絵を描いたのでしょうか?現在、私達は忙しくしている日常の中で、どうして絵を描きたいと思うのでしょうか?現在のクリエイターの在り方を考えてみようと思います。

美術は、いつから何を目的で始まったのでしょうか?
私は今現在生きていて、大学で美術を学びながら絵を描いています。絵画史上最先端な生物として、物を作り出しているわけですが、絵を描くと言う行為は、ラスコーの洞窟に絵を描いた時と同じ行為です。

ラスコーの洞窟壁画(フランス)紀元前15000には、壁に躍動感のある動物が描かれています。
どうして動物が描かれていたのでしょうか?
それは、動物は食料の肉として大切であり、仲間であり、祭事や呪術に必要だから描いておきたい。と言う気持ちの表れの様に思います。狩りを上手く仕留める祈願が込められていたのかもしれませんが、狩猟動物は命をつなぐ大切な物だったので、集団機運が高まっていたからこそ、湧き出て来た希望の表現の様に思います。それは「表現したい」という根源的な気持ちの沸き上がりがあったのでしょう。

一方、パタゴニアの洞窟壁画(アルゼンチン)紀元前11000~700には手形が多く残っていますが、ペタペタ手形を付ける作業が楽しく、仲間との楽しいアートのグループワークの表現になっており、楽しい生きた声が聞こえてきそうで、自分たちの存在を遠い未来に伝えているようです。壁画を描く事で、集団心理で心を一つに結びつけたのでしょう。

もし、ラスコー洞窟の壁画がなかったら今現在はどうなっていたのでしょうか?
やはり、文明と共に文化が生まれるので、どこかで同じように誰かが「作りたい。描きたい」という気持ちで、同じ事をしていたのではないでしょうか。ラスコー洞窟の壁画が発見される前にも、誰かが何かを描いていたかもしれませんね。もしかしたら、ラスコー洞窟の壁画を描いた人に師匠がいて、手ほどきをしていたら?と考えると、「本当は私が先だったのに、私の作品は残らなかった!」と師匠が怒ってきそうです。砂の上に描かれても残りません。後世に残る物で描かないと残らないという事を念頭に入れておかないといけないですね。

ラスコーの洞窟時代の絵画と現在の共通点と相違点


ラスコーの洞窟時代の絵画と、現在の絵画の共通点と相違点について考えてみたいと思います。
まずは共通点ですが、私は絵に、こうでありたい。こういう風に考えたい。という個人的な思いを入れています。それはラスコーの洞窟の絵画と同じ様に思います。生活者の視点に立っているところもに共通点があります。バンクシー等のストリートアートも近いのではないでしょうか?体感をするという事を考えると、チームラボの活動は、もしかすると近いのかもしれません。

一方相違点は、技術の多様性があります。現在は技法も多岐に渡り表現方法も様々です。今はWEB上で図解として絵が扱われる事も多く、貨幣経済の登場で資本家と労働者という関係があり、流通としての絵という立ち位置で仕事として絵があります。

「願望」が人の個性を作り産み出して行くとしたら、その個性をどう自分らしく成長させていけばよいのでしょうか?

何かを作りたいと言う願望を持ち、多くの物が描かれ、作られて来ました。それは人間の成長の記録と言って良いでしょう。願望がその人の個性を作り作品を産み出して行くとしたら、どの様に願望を成就させ個性を成長させていけば良いのでしょうか?

私の仮説ですが、それはとても単純なことかもしれませんが、流れるイメージを小さな紙にドローイングをして、アイディアを蓄積しておくことだと思います。現代は情報が多く、どんどんイメージが流れて行ってしまいます。まずは、アイディアイメージを蓄積することが、自分の宝になり、蓄積されたアイディアが錬金術の様に表現として変化をしてくるのではないでしょうか?
アイディアを温めていると、ふっと作品化して来る時があります。その出来てきたとびきりの瞬間の感覚を忘れないようにしたいです。

私達人間は成長欲求があるので目標がどんどん高くなり、ゴールにたどり着いたと思うと、また次にゴールがあり、そのたびにゴールが高くなるのですが、そうやってゴールを達成させて成長したいと言う生き物であると言う事を自覚し、自らの表現の「欲」を追求して行くことではないでしょうか?

自分の大儀を掲げてみたい

 絵を描いていると、認められる認められない、売れた売れなかった、入選したしなかった。成績が良い悪いという外的要因に左右されることがあります。しかし、私は一喜一憂せずに、伊藤若冲の言葉にあるように、「私は理解されるまでに1000年の時を待つ」を思い返します。まずは高次元の大儀を持ち、そこから日常の生活に落とし込んで行きながら、表現を考え、大儀な心意気を持ち、心に光を灯しながら、その光を頼りに心と眼に現れて来る想いを集中力を持って描いて行くことではないでしょうか?

心の声を忘れずに、ラスコーの壁画も「描いてみよう」という気持ちから始まったと思えば、同じ事をしているので、今日も自分のベストを尽くして一日を終えたいです。