現在、私はよくこういう事を考えています。
なぜその行動をしているのか?この人の達成したい事は何だろう?と考えます。
また、なぜこの人はこのテーマで作品を作るのだろうと。
絵を鑑賞する時は、作者の根っこの部分を観察してしまいます。
また、一度観て良いと思っても、ずっと同じ作品が続くと、どうして同じ絵が続くのかな?と考えます。
ヨーロッパや日本でも、パトロンからの指示の元、求められるテイストで永遠と描き続けることが仕事だったこともあります。この様な自分のテーマを探して描くというのは、近代以降のことかもしれません。
自分のためだけでは絵が描けない
私は、自分のためだけには絵を描くことができません。私は、〇〇のために描くという、使命感みたいなものがないと描けません。そして、その世界にどっぷり入って行かないと描けないタイプなので、器用に描けないところがあります。思い入れがないと描けないのです。
では、私は何に思いを入れているのか?どうして描くという行為をしてまで、それを達成しようとするのか?それを残す必要があるのか?誰が何を言っても描こうとするのか?平凡な物でも、自分だけの良さを見つけて、どう芸術に昇華させて表現するのか?
私には、こう言ったことがテーマを、深く深く掘り下げる作業をこれからして行きます。今後その様なテーマについて言語化して行くのでお付き合いください。そして、一つが完成したらその時点から次の私に脱皮をしたい。そこから離れて、次に行くために脱皮をするために絵を描き、下手でも、今の私の最高の物を作りあげて次に行きたいのです。
全ては歴史が紐解いてくれる
私は日本美術史や西洋美術史を再度学習する様になって、歴史の流れの重要性を再確認しました。
文明は、過去の方が優れている部分もありますし、洗練されている所が多々あります。
自分だけの狭い世界で唸っていても、小さな自我の中では、ちっぽけなものしか生まれません。
なぜ、ホックニーは多視点表現をしたのか?
マチスの色彩構成は、どういう考えからなっているのか?
自分の感覚だけではどうしようもない事を、歴史は多くを教えてくれています。
子どもの頃の落書きという衝動
5歳の時に、家の壁に大きな落書きをクレヨンで描いてしまいました。
とにかく表現したい。描きたいという欲求だけで、お花畑を描いていた覚えがあります。衝動と欲求に突き動かされて、ひたすら描いていました。今でも無心で描いていて楽しかったことを覚えています。
それは、田んぼや畑で遊んで楽しかった記憶を、残したい無心の気持ちにつき動かされたのです。
母は怒るのでもなく「良い絵やな〜」と言って残してくれていた壁は、とても良い思い出になっています。
そこで、叱られていたら、今の私はなかったと思います。
私のどこかに引っかかっている物をアートとして、釣りあげる
そんな子ども心を大切にしながら、心の中にある釣り針にひっかかっている物を、アートとして釣り上げて作品化させることがしたいのです。なので、ひっかかっているのに、釣りあげられなかったら、心の中でその物が腐敗をして、悪さをはじめてしまいます。
私は病気になったり、怪我をしたり、何か上手く行かなくなります。
このブログも、日常あれやこれやと考えているのに、家事や、雑事で流れて行ってしまう思考を整理するために書いて表現をしています。
私の何気ない日常ですが、釣り人として糸を垂らしていることで、私が何かを感じて釣りあげて作品として変化をさせて、誰かや何かのセンサーとなり表現したいと思っています。
創作は、私が健康に生きて行く杖の様に思います。
あなたは、どうして創作をするのですか?