不屈の浮世絵師「葛飾北斎」について

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こんにちは~ご訪問ありがとうございます。
この絵は私の多色刷りの木版画です。

今回は浮世絵師・葛飾北斎について考察してみたので、忘れないうちに覚書として残しておきたいと思います。

 私が浮世絵で最も興味を持った絵師は、葛飾北斎です。なぜなら、画歴70年90歳まで創作への興味が枯れることなく、勝川春朗、俵屋宗理、北斎辰政、葛飾北斎と名前を変え、93回住居を変え、写実派、琳派、読本挿絵、絵手本、錦絵、肉筆画とスタイルを変化させながら好奇心旺盛に、派閥に囚われる事なく制作をして行き、門下生に派閥と言う強い強制力を強いていない姿があるからです。

そもそも、浮世絵って何かな?

浮世絵とは、江戸時代に発展した民衆の風俗を描いた民衆的絵画のことです。遊女や芸者を描く美人画や、歌舞伎役者を描き、役者絵を中心に発展するが、北斎によって風景画というジャンルが作られます。

 北斎が活躍した江戸後期は徳川家が鎖国、文治、身分制が固まり、生活にゆとりができた大都市の住民が歌舞伎や浮世絵が文化の中心を担い、庶民が活躍した時代です。伝統のある京都から離れた土地であったことも、人を自由にさせ、新しい絵を生み出す力になったと推測できますね。

北斎の絵や浮世絵が、世界的に広まるきっかけ

 北斎の絵や浮世絵が世界的に広まるきっかけになったのは、19世紀フランスで日本から送られて来た陶器の包み紙に使われていた紙が目に留まり、その芸術性に度肝を抜かれたからです。1867年パリ万博でも衝撃を与えています。フランスのエドモンド・ド・ゴンクールやルイ・ゴンスは北斎の魅力を執筆して広く伝えています。色彩と線と構図にフランス印象派の画家ゴッホ、ゴーギャン、マネ、モネなど多大な影響を与えており、ゴッホの「タンギー爺さん」の背景には浮世絵が描かれ、ジャポニズムブームの先駆けであり、フランス近代絵画に大きな影響を与えています。

 18世紀後半、浮世絵の最大の版元であった蔦屋重三郎が、日本橋通りに店を出し、庶民までにも購買層を広げられたのは、浮世絵版画であったからです。安くて良い絵を数多く提供出来、多く刷る事が出来るので、販売や流通の拡大が可能になったのです。庶民が気軽に楽しめるものとして大流行しました。一方絵師が筆で描いた1点物の肉筆画も存在しますが、個人注文であると言う希少性と部数に限界があり、多くの庶民の生活の中に入り込めず、急速な世界的な広がりには繋がらなかったと思われます。

浮世絵は、絵師、彫師、摺師と言う版画の産業化で急速に成長します

 木版の多色刷を経験した事のある私は、版の色が変化すると、絵が変わる面白さを知っています。肉筆では味わう事が出来ないバリエーションもあります。版画は、この時代の分業制であり、絵師、彫師、摺師と言う産業も作っているのではないでしょうか?北斎は若い頃に彫師をしていたので、工程を熟知しており「神奈川沖浪裏」は4枚で作られており、その経験に裏うちされた力量に感嘆します。

北斎の『富嶽三十六景 神奈川沖波裏』と広重の『冨士三十六景 駿河薩夕之海上』

「富嶽三十六景」は北斎が70代に制作した錦絵として、北斎の代表作として世界的に有名です。元々、富士山信仰などの流行が日本にあり、版元の西村屋与八のプロデュースで始まり、ベロ藍色を基調として作られています。『富嶽三十六景 神奈川沖波裏』では、荒々しく波が生きている様に緻密に描き、波の表現が生き生きして卓越しており、船が波にもまれて転覆しそうな飲み込まれる勢いがあります。そして、富士山を様々な地点から描いている所が人々の心を掴みました。構図は近景の事物を大きく拡大して、その後ろに遠くの風景を小さく描く手法が取られており、名所とは呼べないような、風光明媚ではない場所から眺められた風景も描かれており、北斎の興味は名所を描くことではなく、一年のうちの季節のうつろいや、時間の変化、動きの一瞬を捉えインパクトのある構図で表現しています。

北斎が「富嶽三十六景」で風景の浮世絵で流行したので、その人気にあやかり版元保永堂が、歌川広重に声をかけ、1833年歌川広重が東海道の宿場を題材にした『東海道五十三次』を発表し、浮世絵風景画の二大巨塔を作り、北斎と広重のデットヒートが繰り広げられました。歌川広重は北斎を意識しながらも、繊細な中間色のトーンを多く使用して、情緒豊かな作風を残しています。歌川広重の最晩年に制作された『冨士三十六景 駿河薩夕之海上』は北斎を彷彿させる海の表現になっていますが、詩的に洗練された平和な海の表現になっています。

北斎と広重がいなかったら、日本の風景浮世絵は存在しなかったと思うと、二人がいたからこそ、浮世絵風景画を見ることが出来るのでありがたいですね。

最晩年までチャレンジ精神は生きている

北斎の業績は、もともと浮世絵に存在しなかった風景版画という方向性を開拓して、欧州の印象派に多くの影響を与えたとされる花鳥風月、幽霊画、玩具画、春画など、多くの錦絵を残しており、「世の中全ての物を描いてやろう!」と言うチャレンジ精神と、細かい気配りのある完成度の高さは驚きです。

死の間際まで筆を取り続けた北斎の心粋は、「常に新しい良い絵が描きたい」と言う妙見信仰の北極星を強く持って生きていたからこそ、出来た様に思います。

「後10年、5年生かしてくれていたら、真の絵描きになれるのに」と言い残して、この世を去りました。北斎の亡くなる前に描かれた「雪中虎絵」のアニミズムの肉筆画には、彼の表現したかった根源的な生の力強さと、祈りの様な文様があります。それは、売れるために描いているのではなく、神からの交信の賜物があり啓示を表現したかった様に見えます。そんな表現の続きを私は描いて行きたいと思います。

参考資料 

永田生慈監修『新・北斎展HOKUSAI UPDATED』2019年図録

辻 惟雄著『日本美術の見方』岩波書店1992年

小林忠・大久保純一・森山悦乃・藤澤紫著『浮世絵の鑑賞基礎知識』至文堂1994年